昭和51年11月07日 朝の御理解
御理解 第83節
「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてるということはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば我慢我欲はできぬぞ。濡れ手で粟の掴み取りの気を持つな、人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」
人より一年遅れて分限者になる気でおれ、必ずおかげが受けられる、という信念です。私信心と言うのは、おかげを受けると言う事ではなくて、神様を信ずる力が愈々強くなるという事だと思うですね。神様を信ずる力、だから一年遅れて分限者になると言う気にもなれる訳です。今日御神前で御祈念中に、不動の信念確立運動と言う事を頂きました。不動の信念確立運動。私は先ずおかげを頂く大きなおかげを頂いて大きな安心、大きな喜びを頂く事の為に、先ず不動の信念の確立を願わなければならんと思う。
信念、信心を段段させて頂いておりますと、ね、神様を信ずる力がつようなって来る。所謂愈々ん時にうろたえたり、又は迷うたりしなくても良い、そういうのが出来て来る、それが信心の、いわば楽しみであり、又は稽古と言うならば、そこを目当てに稽古していかなければいけません。自分の心の中に、喜びが頂けれる。昨日昨日一昨日でしたかね、久留米から古田さんという方がお参りになりまた。
一人暮らしの方です。長い間胸の病気で病院に入院しておられまして、たまたま井上さんですかね、久留米の確かお導きだったと、おかげを頂かれてそしてほんとに自他共にビックリするようなおかげを頂いて、丁度去年の一年前の昨日、一昨日退院のおかげを頂かれた。私は朝必ず朝のご祈念に参って見えられます。佐田さんの車に便乗して一緒に参って見えます。一昨日朝参り又昼お礼出て見えました。今日は一年前に新しい寿命新しい命を頂いたおかげを頂きまして、丸一年にならせて頂ました。
それでそのために、まあ特別御礼参拝があった訳です。で、私はお供えを持って見えとったから、お供えをして神様のお礼を申させてもらおうと思って、久富先生あのお供え、これをして下さい、気が付かんなおりましたら御霊様の方へ。こらこらそれは御霊様じゃなか神様じゃが、と言いながらです私は思いました。もし合楽に御神縁を頂いていなかったらほんとに御霊様として、受けなければならないような。
大体は運命にあられた方だと思うですね。お互いですね、ほんとにおかげを頂いて、あの時、おかげを頂いてなかったら今日の自分はなかった、そういう例えば、おかげが、ほんとに神様のおかげと確信でける所に、信心の言うならば稽古がでけたと言う事になるのです。おかげじゃろうと思う、と言った様な時には、それはそれの引き当てに不動の信念は生まれて来ません。そのこううっついてからいびき掻きよる人達起こしなさい、どんこん邪魔になる、お話の邪魔になっていかん。
一年間毎朝朝参りが、それ以来でけた。途中で丁度夏の頃でした。スイカのある頃あるお客さんが見えて、ここで出してそしてあの、部屋に帰られた途端に何か吐き気が催された。それで洗面所に行って、吐かれたら真っ赤な物が出たから、はあさっきからスイカを食べたから、スイカを戻したんだなと思うたら、なんとそれは血を吐かれたのだった。その翌日お参りをして見えて、そのお届けをしてもう本当に信心と言うものは、もうこんなにも、心強いこんなにも有難いものかと思うたとともに。
その血を吐いた時に、もう微動だも不安なものがなかって、おかげ頂いたというものが出来てなかったというのです。病気はこりゃほんと良くなとったんじゃなかった、こりゃ又再発した、とこれが普通でなら、そういう私は心が先に出て来ると思うです。はじめはスイカを戻したのかと思った、あまりがっがとこう、血を吐いたもんですから、ね、真っ赤しとるからスイカと思った。
所がなんとそれは血を吐いたのであった。そん時に、ね、おかげを頂いたと言う事だけで、不安なものはぜんぜんなかった。そしてやっぱりあくる日からずっとお参りされるんです。私はね不動の信念と言うのは、そういう時に自分に段段不動のものが、頂けて来ておるということを気付くのです。ね、それはどう言う事からかと言うとね、医者もたまがるようなおかげを頂いたと、言うその頂いたっちゃろと思う、と言う様な事であったら、そういう信念は生まれて来ないと思うですね。
もう間違なしに、親先生のお取次ぎによってじぶんが助かったんだと言う確信があるからこそ、途中でそういうことがあったけれども、その時に微動だもしなかった。以来いよいよ健康で、昨日はもう、まぁ、いわゆる一人暮らしをしておられますから、もうほんとに、小規模、小さいそれは規模ではありますけれども、必要なものが必要に応じて、おかげを頂くと言う事、最近なんかはもうほんとに、金を出して買うと言った様な事は出来ませんけども。ある方がテレビまでまぁ送って下さって。
もう勿体無い日々を過ごさせて頂いておるというのである。おかげを受けるのはそりゃあほんとに、鮮やかなおかげを頂きます。けれどもそれがおかげと確信できずに、おかげじゃろうと思うと。昨日もそういう感じのお届けがいくらもありましたが、高芝さんの奥さんの甥に当たられる方が、あもう皆もご承知のように、ご兄弟が何人もあおられます。ほで何かと言う時にはここお願いにも見えるし、またお参りもされますけども、信心しておるという程しの事ではない。
だからいつもあの年に一回の交通安全の、祈願祭があります時には、もう親戚中の方達のお届けをなさって、あの交通安全の御神米をみんな、あのいわゆる配って歩かれる。毎年おかげを頂いて、無事おかげを頂いておられる。昨日そのお礼のお届けが御座いましたが、お姉さんの息子甥に当たられる、今日ほんとにおかげを頂いてというて、お礼に高芝さん所まで見えて、高芝さんがそれを取り次いで、まぁお礼のお届けがあったんですけれども、大きなお百姓をしておられ、養鶏をなさっておられる。
卵を沢山積んで、その行っておられる所に、汽車と衝突したと言うのです。 というのがね、( ? )をかぶとるというのは、あんなときだろうと思うのですけれども、汽車が来よるという事を全然気が付かなかった、そこに来とる汽車にそしてその踏切を踏み切ったと思うた途端に汽車がばぁっと通った。それでもうその汽車にも傷が付く、車にも勿論傷が付いて、積んでおる二十箱のその卵は勿論、ぐちゃぐちゃけども自分は、もうそれこそまぁ、かすり傷一つしとらんと言う事ではなかった。一針ほど丁度、縫われるようなまあうち傷をなさったそうですけども、助かった。
まあおばしゃまがいつも願ごうて下さる、交通安全のこの御神米を頂いておったから、まぁ、おかげ頂いたっちゃろと思うたと言う事でしょうね。自分がお礼に出て来る訳でもなくて、ただお供お初穂を持って、おばしゃん御礼に行って下さいと言う事ですから。だからそう言う事ではね、不動の信念は絶対生まれてこんです。だからあの頂いとかんよりかまし、又次のこんだ大祓いの時に又祈願祭の時には、御神米ばお願いします、ぐらいな事であってそれが不動の信念。
とにかく日々信心の稽古をしよらなければ、ね、古田さんじゃ無いけれども、それ以来一年間日参がでけると、ね、それはほんとにおかげを頂いて助けて頂いた、というその信念、信ずる心が強いからです。考えただけでもほんとに、肌に粟粒を感じるような、話しですよね。汽車の来よったのを気が付かなかった。これも昨日一昨日、竹内先生がお取次ぎされて、日田から長野さんという方がお参りして来ます。まぁめったに月に一回か、二回ぐらいお礼参拝されるぐらい。
もうこのほんとにおかげを受けられる。もう世界に何台でもなかろうちゅうごたある、素晴らしいその自動車を今度買われた。もう前もなんか素晴らしい外車を買うておられた。今度もその新しい車に乗って、福岡行きを福岡行きをなさった。もういつも必ずあの高速道路を走るんだけれども、その日に限ってどうしてもその、高速道路に行きたくなかったげな、だから普通の道通った。
そしたら対向車ですね、向こうから来る車がこう合図をするから、なんじゃろうかと思うて止まったところが、なんと車輪ですね車が外れよった。もしこれがです高速道路を走っとったら、勿論道幅が広いから向こうの車が気が付くはずは無いし勿論猛スピードで走りますから、どげな大事故になとったか分からなかった。それをもうとにかくあれはおかげですね、心の中に神様がそう思わせなさる。今日だけはどうしても高速道路を走ろうと言う気がしなかったちいう。
その通りの事を竹内先生にお取次ぎさせて頂いたら、ほんとにおかげで命拾いをした、といういて、それこそあらたまったお礼の参拝がありました。これなんかはですね、もう間違いなしにおかげ頂いた、もうほんとにあの一度や二度ひやぁありません、そうしたいわば、シャープなおかげを受けられてついその、大体神様を信ずると言う程しの方じゃ無いんですけども、自分の体の悪い事または、奥さんのお父さんのお病気の事、まあ色々な事で、もうほんとにもうおかげと言わなければおられない。
おかげを受けておる。だから、その確信があるからこそ昨日一昨日の、言うなら改まっての、お礼参拝があったわけです。だからそういう例えばおかげを受ける。これも昨日電話が掛って参りましたんですけども、一昨日森のあっちはなんでしたかね、名前は本田さんだけど、所はなんじゃったかね、玖珠かね玖珠地区今あのうあちらで、共例会が本田さんのお宅であります。もう三、四回参ります。
もう度々にそのこんだ十九名から集まって、信心共例があっておるしかも一人一人がもう、大変なおかげを受けて、まあいかれるわけですけれども、本田さんのとこのこの頃からも話したように、拠出拠出米が四十俵から出されたのが、半分の二十表返って来た。うむれておったというので返された訳です。それこそもうくうっとするぐらいにありますよね。それで成程その食べてみた所が、ちょっと匂いがするし、ね。
それでまあ佐田さん所に電話を掛けると、佐田さんがその事について、まあ色々とまあとにかくまあ、お百姓さんが、そこの村全体がそうです。そこの村だけで限った事じゃなか、どこでもそうかも知れません。拠出をするお米は沢山取れるお米、それからおいしい米は自分所で頂く米、と言ったようなね、だからそういう心がけでは、信心させて頂くものは、おかげは頂かれん、ね、先ずそこん所から、お詫びをしなきゃあならん、とまあ懇々とその電話ではありましたけれども話された。
信心しよって気が付かんと言いながら、神様に対して相すまん事じゃったと思うてお詫びをさせて頂きよったら、もう大きなお家だそうですけれども、家中に響き渡るごたある、大声上げて泣かにゃおられん程しに相済まんという、一夜を過ごしたというてお届けがあっとりました。その上ならあのまだ( ? )良いお米が取れると言うその、本田さんの方には今年に限って、いのししがあばれてね。
そのそれを食い荒かす、荒らす折角これはおいしい米だからというてそのたしなんである、その米はいのししにあらされ、拠出したお米は半分も返って来る。そこにそれでもそういう結果にならなければならないような、原因があった事に気付いてお詫びをする気になって、まぁ一生懸命お詫びをされた。丁度共例会の何時もあくる日お礼に出て来られますけれども、あの打ち合わせしてあったあの取り入れの方達が見えて、それが出来なかった。それで昨日一昨日、お礼参拝をしてみえた訳です。
もうそれこそ喜び一杯で大変なあの喜びようでした。所にその帰られてからすぐ電話がまぁ、掛かって来た。それが帰りのバスの中で丁度私の方から三里ばっかりはなれた所の村で、とにかくあの山をこう三つも山を超えなきゃならん、もう三軒ばっかりしかない大きな、だからその三里も離れとっても、隣んごたあるとこらしいんです。そこのその方とバスの中で一緒になった。
ほしてあなた方その方が言われるのに、あなた方の拠出した米が返って来た米が、よっほどその美味しかちゅう話( ? )あげな美味しか米は食べた事はなかち、言う話を聞いたから、どうでんその教えて貰おうち言よるけんで、お願いしますちゅう事じゃった。それが前の日にそこの村の人がやって来てから、そのご飯を出された訳です。こりゃあなたもうそげんして返ってきたお米ですけん、美味しくなかばってんちゅて出されたげなたい。所がそれが美味しいこつ美味しいこつばさらかげなもん。
とてもこげな美味しかお米を、というて言われるけん自分も食べてみたところが、確かに美味しかったち。確かになら昨日まではそれを頂いておる、ちった匂いのするごとある米が、とても普通では味わえんごと美味しかったと言う事が、始はその人がお世辞言い御座るかと思いよった。ところがその美味しかった事を村に帰って、話よったけん、そげなこつなら、私どんがどうぞお願いしますというおかげに成って来ております、というお礼のお届けであった。
しかしまあ考えて見ると不思議な事じゃありますよね。私共が分かる所が分かるというか、ね、ほんとに信心しよって悪か米は拠出する、よか米は受け取る言った様な考え方が間違えとったごと、とてもほんなこて、これは返されるのが当たり前と気が付いて、お詫びしよったらもう、大声上げて泣かにゃおれない程しに、感動のお詫びであったとこう言う。そしたらその匂いのする筈の米が、今までこげな美味しい米を食べた事は無かった、というような米に変質しておるという事です。
言うならば、ね、癌であったものが、癌で無いように肉体の上にも変わるようなおかげを頂くように、いうなら米の味でも変わる、ね、そこに生まれて来るのが信心です。それには分かる所が分かり、詫びる所は詫びる、お礼を申し上げる所はお礼を申し上げる、といったような信心が、でけてこなければね。私はね例え現在どう言う様な状態にあってもです、人より一年遅れて分限者になる気が、もうよかよかもうどうとかなろたい、といったようなものじゃなくて。
人より一年遅れて分限者になるというその心がです、絶対信を持ってそれこそ我先に・・・・・?様な心でもとにかく自分は一足遅れてから、いや一年遅れてからで必ずおかげになると、確信がでけると言う様な、おかげを頂く為にはですね。言わば今日の御理解にある、一文、二文と貯めあげたお金、いうならみてることが無いと仰せられるようにです、私共は日々、ね、それは一文二文かも知れませんけれども、古田さんのいわば無い命を頂いた程しのおかげと実感しておる。
そこに一年間のお礼参拝がでけた、勿論途中でハッと思うような、お試しは受けたけれども、その時に微動だもせんですんだと言う事。むしろお礼を申し上げるおかげ、心の状態が開けて来たという事。丸一年後にお礼参拝さして頂いたら、ね、どう間違えたか、自分のお供えが御霊様の方へお供えされると言う様な、事はいかにもう一年前に御霊様になっておらなければならない筈のが、今日このおかげを頂いておるんだぞと、神様は押して確かめるように、教えておられると言う事。
言わば一年間におかげで助かったというその思いを愈々裏付けるように、神様が教えて下さったんだと思うです。私共が信心させて頂いておりますと確かに、そういう働きがあります。疑うにも疑えない所の、おかげが頂けて来るんです。それこそ話を聞いただけでもです、身の毛のよだつような、もしほんとにねその汽車と、もうそれこそ一秒でも、一秒間でも早く、あのまあ遅かったらです、失うた卵どころじゃないもう身体も、木っ端微塵になっておったであろう様なおかげを、頂いておってもです、ね。
決しておかげじゃ無いとは言うてない。その証拠にはお供えまで持って、おばしゃま御礼に行って下さい、というのだから。けれどもそれはね、おかげじゃろちゅうて思うぐらいな事では無かろうかと言うのです。ね、しかも長野さんの場合なんかは、ね、それが次々といろんなおかげの上で、矢張りおかげと確信する、おかげと思うとるというのがです、これは少しそのおかげと感じる思いが強い事になって来る。
古田さんの場合、または本田さんの例をとりましてです、愈々神様のおかげにね、もうそれこそ驚きの声を上げておられる。ほんなこつじゃあるだろうかという様な、成程自分の心がけ次第では、ね、そういう匂いのするようなお米が、こげな美味しか米は食べた事なかと、思うたり人から言われる程しの、米の質が変わる程しのおかげが受けられるという、事実を体験、そこにはです、もう分かる所が分かり、詫びる所は詫び、お礼を申し上げる所はそれこそ、お礼を申させて頂く様な信心からです。
そういう体験が生まれて来る。そういう体験が積み重ねられていく時にです、愈々信じて疑わない心が生まれて来る。それを安心の生活というのです。信心のギリギリの目的はそれなんだ。おかげを頂くと云う事ではなくて、ね、言うならば日々を不動の信念を頂いて、いよいよ強いものに、強化して行く稽古をさして貰う。一年遅れて分限者になれと言われる、信心しとりゃ何時かどうかなるっじゃろと言った様なものではなくて、そのおかげを確信して待たれるというのである。
そこに安心がある喜びがある、ね、だからもう例えば、それこそ目を見張る様なおかげを頂いてもです、改まりも伴わなしに、又はお参りという修行も伴のうていないのであってはです、そん時だけではおかげと思うておっても、そのおかげの思いが段段薄う成って来るです。是ではいわゆるまあね、不動の信念が確立される稽古と言う事にはなりません。不動の信念が確立して来る事の稽古をさせして貰う。ね。
昨日一昨日でした、ある方がまあ大変な、まあいわば事件が起った訳です。沢山なお金を預かっておられた。それが盗難にあった。それが段段問題が大きくなって、もう言うならばどうにもまあしょうがない。ここに何回か参って見えた事がある。ある方がその方に毎月おかげの泉を持て行ってやられる。そう熱心に見ろうとも思わなかったおかげの泉を、こう開かれた。そしてあそこに丁度、例え人が乞食じゃというても、泥棒じゃというても、もろうて歩かなければ乞食じゃ無い。
人のものを取らなければ泥棒じゃ無い、神が顔を洗うてやる、というご理解の所を開いた。もうそん時の心の喜びというものは、助かるぞ助けて頂くぞ、解決のおかげ頂くぞという心が、でけて、そしてあのそのまま、ここへお礼に出て見えた。したらお届けが沢山ありよりましたから、丁度ご理解を頂かしてもらいよったら、いわゆる寛の字のご理解があった。ね、神様の働きとして、それを自然の働きを神の働きと見るという、今日は、構なご理解を頂いてとその方がここで。
、御礼のお届けをして、ま細々とこれが事が事件ですから細やかに皆さんにお話出来ませんけれども、お話聞かせて頂いた。ね、けどもあなたは今まで、なら神様のおかげというものを知らないのです。だから、寛の字ということがです、神様の働き、自然の働きがそのまま神の働きと見る事が信心だなと分かっただけでは、安心は生まれません。だからそれ以前のものがでけなければいけません。
それは教祖様はそういう時には、心配する心で信心せよと仰せられるから、あなたの場合は、寛の字が分かっただけでは、神の働きとして受ける事は出来ません。神の働きとして受けられたら、御礼が言えれる、神様を称える事が出来るという、どう言う事があっても、けどもそこ迄は解らないでしょうが、だからそれの事前の信心にです、心配する心で信心せよと仰るから、不安に思う、又はえげつない事を言われたりする時にはです、その心をそのまま合楽に持っていらっしゃい。
そして心配する心で信心さして貰いなさい、不思議にその心配が薄らいで来る。そしておかげを頂いて初めて、成程全ての事が寛の字で受けるね、こういう事が忌まわしい事が起ったおかげでです、合楽に本気でお参りする事が出来る様になった、しかもおかげを頂いた。そして初めて、いわゆる寛大な寛の字という意味が分かるんだと言う訳です。ね、過程があります。寛の字寛の字といま、言われますけれどです、それをほんとに神の働きと押し頂いて、頂ける内容が生まれていないならば。
まだあなたはね心配する心で信心、心配する心で神様に打ち向かわにゃいかん。心配する心で本気で一修行させて貰わなければならんという事に、なりますでしょうが。昨日、大城の稲員さんから、吉田さんという方が、若い嫁さんですけれどもなかなか良い信心をされます。里のお母さんがキンシンなちゅたっけ、ンシキンコウソク、心筋梗塞という病気で、もう医者が助からんように言った。
それを一生懸命その娘さんが信心で、おかげを頂いて、昨日は親子三人でお礼参拝されて、もうほんとに助けて頂いて有り難い、もうそして神様の働きの恐れ入りましたちゅうて、あのお母さんが言われるんです。 私は信心が分からん、分からんけど、隣のベッドにおんなさるとが、甘木で大変長い信心の稽古をなさった方だったらしい、枕元に娘の持って来てくれた御神米を置いとったら、あなた金光様の信心をしなさるですかちゅわけ、こんな風で合楽にお参りさして貰いよります。
娘があちらで熱心にお参りしますから、と言うたら、はあもうあなた絶対助かるよ、ちそのお婆さんが言わっしゃった。
もうおかげなら、いま日本一言われた合楽が、もうおかげを頂く事においては、日本一と言われるような教会に、あなたがご縁を頂いとるなら、あなた絶対助かるよ、私どんが若い時が甘木がそげんじゃった。もうそれこそもう、そりゃたまがる様な、おかげを親先生の時代には私どん頂いた。それが丁度合楽の御ひれいが丁度そん時の様な、御ひれいだそうな、おかげでなら日本一と言われる、合楽教会にあんた、御縁頂いたもうあなた絶対、それを毎日言いなさるそうです。
だけどもどんなに医者がこうやって首をひねっていっても、もう( ? )あなたは絶対助かるよ、ち言いなさるとが、おかげで助かったと言うのです。確信に満ちた言葉というのは素晴らしいですね。とにかくここでその甘木の方が、参って来るではないけれども、噂だけで聞いておられる。ほら大変な御ひれいげな、と言う事しかもおかげで、おかげを頂くと言う事においては、日本一と定評のある合楽に、おかげを頂くあなたは、助かるとこう言う。そういうね。
確信に満ちた言葉、言えれたり思えたりする運動を御取次ぎ、不動の信念確立運動という事になるんじゃ無いでしょうかね。皆さんの心の状態、日々全部おかげいなる確信しうる、又は不安又は心配なら心配する心で信心するという信心、したらそこをほんとに修行、ね、心配がなくなってしまうくらいの、一つ修行に取り組ませて貰うて、普通で言うならば、それこそハッと思う様な。
古田さんが血を吐かれた時に、はあまだほんとにようなっとらじゃったばいの、又再発したばいの、と言う様な不安なものじゃなくて、もうそれこそ、もうそれこそ、もう微動だもしなかった、むしろお礼を申しあげる心がでけておったという。それは日々の日参というその修行が、愈々おかげと確信しておることを、愈々確信づけていった、表れがそう言う事だと、私は思うです。
おかげは様々、もうほんとにどんなに考えても、素晴らしい神様のおかげと言わなければおれない程しのおかげを頂いておっても、まあ、おかげじゃろと思うと云う様なおかげから、おかげと確信出来る信心をね、頂いて、いよいよ不動の信念を身に付けて行く、安心のいわゆる喜びの生活をさして貰えれるおかげ、そう言うおかげを頂いて、どういう場合であってもです、一年人よりも遅れて分限者になる事が、確信でけての生活がでける訳ですね。
どうぞ。